<前編>リアルこち亀な父の家、演劇に夢中だった学生時代
こんにちは。
となりの取次屋のわけ美です。
家族や身近な人とのあいだで
「どう伝えたらいいんだろう」
「ちょっとモヤっとするなあ」
そんな気持ちを整理したり、
その思いを代わりに届ける仕事をしています。
家族のコミュニケーションを取次ぐサービス
「意図電話」も、そのひとつです。

このページでは
なぜ私が取次屋という仕事を始めたのかを、
生い立ちから書いてみました。
少し長い話ですが
最後まで読んでいただけたら
「なるほど、そういう人なのね」と
手を打って笑っていただけるかもしれません。
世話焼き長女、誕生


下町育ちの四男坊で、
自動車部品の工場長をしていた父と、
デパート通いが趣味の
ゆるふわOLだった母。
その二人のあいだに、
私は長女として生まれました。
性格は人懐っこく、好奇心旺盛。
音楽を聴くとすぐ歌詞を覚え、
初めてマスターした曲は
小林幸子の「おもいで酒」。
保育園では、
先生の横でアシスタントのようなことをしていました。
子どもたちが並ぶときに声をかけたり、
順番を教えたり。
人の世話を焼くのが
自然と好きな子どもでした。
小学校の給食時間になると、
先生は食べるのが遅い子たちを私の周りに集めます。
「みんな食べ終わるまで見ていてね」
励ましたり、時には叱ったりしながら
昼休みが終わるまで付き添うのが日課でした。
リアルこち亀な父の家、戦死者が多い母の家


父の生家は、東京都葛飾区。
町工場の入り組んだ路地の奥に、
古びたトタン屋根の借家がありました。
商店街の騒がしさを抜けて進むと、
下町らしい風景が広がっています。
隣の家のおばさんが
窓から腕を伸ばして
「お醤油きれちゃったから貸してよォ」
そんな声が飛び交う世界でした。
父はよく昔話をしてくれました。
ご近所同士が助け合う
高度成長期の下町の話。
まるで
「こち亀」の両津勘吉の子ども時代のような
にぎやかな物語です。
そんな話を聞くたびに、
私はわくわくしていました。
一方、母方の家は
滋賀県の琵琶湖のほとり。
祖父や父が二代続けて婿養子となり、
母方の祖父母と一緒に暮らしていました。
祖母には兄姉が九人おり、
多くが戦争や病気で亡くなっています。
祖母は写真や墓を前にして
こう話しました。
「すぐ上の兄さんは特攻に出たんや」
「こっちの兄さんは外交官で、満州で自決しはってな…」
戦争で家族を失った話を聞くたび、
幼い私は
家族の歴史や絆というものを
ぼんやり感じていました。
昭和的な価値観への反立


祖母は教師で、
公務員家系の価値観を強く持っていました。
「小さい会社に勤める男はダメ」
「女でも良い大学へ行って公務員と結婚せんとあかん」
そんな言葉を聞くたび、
子どもながらに悲しくなりました。
それはまるで
自分の両親を否定しているように
聞こえたからです。
「古い考えで両親を採点しないで。
幸せは他人が決めるものじゃない」
うまく言葉にできないまま、
そんな思いを抱えていました。
卒業文集には
こんな将来の夢を書きました。
「結婚しないで、仕事をしながら一人でくらす」
小さな反抗だったのかもしれません。
教科書嫌いの先生が作ってくれた一冊


中学一年生の担任は、
少し変わった理科の先生でした。
教科書はほとんど使わず、
実験道具でおやつを作って食べる授業ばかり。
ある日、先生は言いました。
「本当に思っていることを
なんでもいいから書いてみなさい」
集めた文章を一冊にまとめ、
学校中に配りました。
タイトルは
「一等星」
親への不満や、
先輩への怒り。
思春期らしい感情が
たくさん詰まった冊子でした。
私も
「大人はわかってくれない」
みたいなことを書いて
ドヤっていた記憶があります。
今思えば
子どもの愚痴の掃き溜めのような内容です。
それでも先生は
その冊子に
「一等星」
という名前をつけてくれました。
誰かの本音を
光のように扱ってくれたことが
とても嬉しかったのを覚えています。
演劇との出会い。NHK出演・芸大へ


高校では演劇部に入り浸り、
衣装作りにのめり込みました。
顧問の先生の懐が深く、
学校になじめない
少し危うい生徒たちが
自然と集まる部でした。
美術や工芸が得意な
裏方志望の部員が多く、
装置や衣装は立派なのに
誰も役者をやりたがらない。
そんな少し変わった集団でした。
特技のない私が
「器用貧乏な自分がイヤです」
と顧問の先生に相談すると、
先生はこう言いました。
「真似て学んで、何でもできるのがあなたの才能よ」
その言葉をきっかけに
舞台の段取りを整理したり、
アイデアをまとめる役を任されるようになりました。
役者と裏方のあいだを調整したり、
舞台全体の流れを整えたり。
市民ホールの技師さんと
照明や音響の打ち合わせをするのも
大好きでした!!
舞台は
たくさんの人の仕事が重なって
できあがります。
その人たちの調整役が
なぜかとても
しっくりきたのです。
いつの間にか
NHKが中継する全国大会に出場し、
地元メディアにも取材されていました。
「いいかげん部費を払え!」と怒られたので
最終的には部員になりました。
演劇ではよく
「この人はなぜこの言葉を言うのか」
を考えます。
人は
言葉どおりに動いているわけではない。
その奥には理由や願いがある。
今思えば
人の言葉の奥を考える癖は
この頃に身についたのかもしれません。
そしてこのとき
もう一つ知りました。
ちょっとした言葉が
誰かの人生を照らすことがある。
先生の言葉は
大人になった今も
何度も思い出します。
天才と奇人変人の巣窟で学んだこと
高校卒業後は
大阪芸術大学の放送学科へ進みました。
入学してすぐに悟ります。
自分には
芸術やエンタメの世界で
食べていける才能はない!
芸大は
天才と奇人変人の巣窟でした。
常識に収まらない人、
理解が追いつかない発想の人。
そんな人たちが
当たり前のように
そこにいました。
何でもアリな空気の中で過ごすうちに、
私は自然と
少しの奇行や
ちょっとした常識外れを
否定しない価値観を
持つようになります。
素晴らしい才能があるのに
親から理解されず
苦しい生活をしている学生もいました。
そんな中で
才能があるわけでもない自分が
不自由なく芸大生活を楽しんでいることに
少し罪悪感もありました。
卒業後は
普通の会社に就職しなければ。
楽しい時間は終わりだ。
そう自分に
言い聞かせていました。
<中編>立てば猛獣使い、座れば変人担当、歩く姿は爆弾処理班 へ続く!




